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イデアなひととき
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  「小倉百人一首」と言われるが、「藤原定家」から「宇都宮頼綱」に渡された「小倉百人色紙」は、実際は98枚しか無かった。なぜなら「頼綱」は出家して京都に住まいはしていたものの、“鎌倉幕府”の要人であることに変わりはなく、“鎌倉幕府”に対して“承久の乱”を起こした「後鳥羽院」と、その息子である「順徳天皇」の和歌を「頼綱」に渡す訳にはいかないという「定家」の心遣いだったのだろう。但し「定家」自身は、さまざまな経緯は有ったにせよ、やはり「後鳥羽院」に対する尊敬の念もあり、最終的には「後鳥羽院」と「順徳天皇」の和歌も加えて、漸く「小倉百人一首」を完成させたというのが定説となっている。

  次に「百人一首」には、“有明(ありあけ)”という言葉が出て来る和歌が9首もある。“有明”とは月が空に残りながら夜が明けること、或は一般に夜明けのことを指すが、これらの和歌によって当時の貴族の暮らしの一端が垣間見える。何と平安貴族達は、毎日午前3時には起床してまずその日の吉凶を占い、神仏に祈り、鏡を用いて健康チェックをし、日記を書き、房楊枝で歯を磨き、軽食を摂り、身支度を整えて夜明け前の路を急ぎ午前6時頃には宮中に参内したらしい。
この宮中参内の道すがら、目に付いたものやその時の心境を和歌に詠んだのだ。

  さて、「百人一首」の中には、全く同じ日時、同じ場所で、二人の歌人によって、同じ題材について詠まれた和歌があり、これが大きな悲劇を生んだと伝わる。

  「百人一首」の和歌には年代順に番号が振られているが、その事件は“四十番”と“四十一番”の間で起こった。その時とは「天暦(てんりゃく)」、即ち、村上天皇の時代で、その日とは「天暦御時歌合(てんりゃくおんときのうたあわせ)」が行われた日であり、場所は宮中内裏である。歌合(うたあわせ)とは歌人達が左右に分かれて、それぞれ一首づつ和歌を詠みその優劣を競う遊戯だ。その日の題詠(だいえい、テーマ)は「忍恋(しのぶこい)」。この時代、「恋」は「歌」の出来栄えによって成就した。美しい姫をその手に得たければ、まず「歌」によって自らがどれほどの想いを持っているかを伝えなければ、「恋」は始まらない。

つまり和歌は自分の人生を切り開く為の重要な手段であり、正に“命懸け”の技という訳だ。この日、まずは三十六歌仙の一人である「平兼盛(たいらのかねもり)」が「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問うまで」と詠んだ。これと競う形で同じく三十六歌仙の一人である「壬生忠見(みぶのただみ)」が「恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思いそめしか」と詠んだのである。“忍ぶ恋”を見事に詠い上げた二人の歌は、満場居並ぶ人々の間でも甲乙つけ難いと激論を呼んだが、結局「平兼盛」の歌が勝ったと伝わる。そしてこの敗北を悲観した「壬生忠見」は食欲を無くし、病に掛かって亡くなってしまったらしい。「小倉百人一首」の4割以上が“恋の歌”で占められているのは、「恋」こそが古(いにしえ)の人々の“人生”そのものだったからだろう。三十一文字(みそひともじ)に込められた古の人々の“想い”が千年の時を超えて、瑞々しく現代の私達にも伝わるという事の凄さを噛みしめたい。

 


文 国影 譲    

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