トップページ  >  “イデア”なひととき
イデアなひととき
line6px
t_twoonelife84

そもそも“小倉百人一首”の選定を依頼した「宇都宮頼綱」と、それを受けた宮中に仕える歌人である「藤原定家」が、いったいどのようにして知り合い、互いの子供達を結婚させるまでの信頼関係を築いたのか。その答えは、二つある。一つは、彼らは共に“藤原一族”の末裔であること。「定家」は、「藤原道長」の来孫(五代下の孫のこと)であり、「頼綱」は、「藤原道長」の兄である「藤原道兼」の来孫に当たる。そして二つ目は、何と言っても二人を強く結びつけたのは、「和歌の道」であったのは間違いない。「頼綱」は武士でありながら“歌道”に長け、京都歌壇、鎌倉歌壇と並んで“日本三大歌壇”の一つにまでその名を高めた“宇都宮歌壇”の創設者だった。ちなみに“歌壇”とは、大勢の歌人達(和歌を詠む人々)が集い、互いに切磋琢磨するコミュニティのことだ。元々「宇都宮一族」の所領であった栃木県宇都宮市という地方都市に、優秀な歌人達が数多く輩出した背景には、「頼綱」と「定家」の信頼関係が有った。「頼綱」が“和歌の師”と仰ぎ心酔していた「定家」に、幾度となく歌の教えを乞う姿勢が、宇都宮の歌人達のレベルアップにも大きく寄与したのは、疑いの無いところだろう。

さて「藤原定家」と「小倉百人一首」の話に戻ろう。「藤原俊成(しゅんぜい)」の息子である「定家」の特に“歌の道”に関しては“頑迷”にして“一徹”、例え相手が天皇であろうが上皇であろうが一歩も引かない頑固者だったらしい。「定家」24歳の時、宮中で行われた“新嘗祭(にいなめさい)”で同席した少将「源雅行」から侮辱されて激高し、傍らに有った脂燭(ろうそく)で「雅行」をぶん殴ったと伝えられる。こういう人間臭いところが実は「定家」の魅力でもあるのだが、父親である「俊成」は大変だったらしい。早速、宮中出入り禁止となった「定家」を救うべく、「俊成」は得意の“和歌”を以って「後鳥羽天皇」に許しを請い、「定家」はようやく3ヵ月後に宮中参内(さんだい)を許された。また或る時は「後鳥羽院」から褒められた“自分の詠じた和歌”が「定家」自身は気に入らず、“新古今和歌集”への入選を、頑強に固辞した為「後鳥羽院」は「定家」のことを“折り紙付きの強情者”だと評した。

年齢は「定家」より18歳も若いとは言いながら、「後鳥羽院」も“歌の道”に関しては強烈な自負心を持っていたため、二人は事ある毎に衝突をして、段々と間柄が険悪になって行った。そして遂に承久2年、宮中内裏で開かれた“歌会”で「定家」が詠じた歌が「後鳥羽院」の“勅勘(ちょっかん、天皇の勅命による勘当、縁を切られる事)”を受け、再び宮中出入り禁止、自宅謹慎を命じられた。

いよいよ天下随一の宮廷歌人「藤原定家」もこれまでかと思われたその時、世に言う“承久の乱”が起こり、「後鳥羽院」は隠岐島(おきのしま)へ配流され、その息子である「順徳天皇」も佐渡ヶ島へ配流となった。直前に“勅勘”を受けていた「定家」は「後鳥羽院」との関係を全く疑われる事無く、「九条家」の後ろ盾も得て、再び天下随一の歌人としての名声を欲しいままにすることになる。(つづく)


文 国影 譲    

≪前のページへ | 次のページへ≫ ▲このページのトップへ spacer