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イデアなひととき
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我が青春の北京!(上)

 

  1981年の夏、生まれて初めての“カナダ旅行!”から戻り、食品会社の営業職として“日常の喧騒!”に埋没していると、或る日、直属の上司に呼び止められた。「今度、我社から初めての“企業交換留学生!”を北京に派遣することになったのだが・・。確か、君は中国語をやっていたよね?」

  どうやら話の内容は、日本の各メーカーが中国からの研修留学生を1年間に亘ってそれぞれの企業の工場などに受け入れる換わりに、日本の各企業の社員を「北京市中央民族学院(中国の少数民族たちに、標準語である北京語を教えるための学校)」に半年間、語学留学させるという事らしい。ただ文化大革命が1977年に終結したばかりで、本当に日本の留学生の安全が100%確保出来るかどうかを各企業とも懸念していたようだ。“妻帯者!”はダメ、特に子供がいる者は絶対ダメとか、会社にとって将来性が顕著な者はダメとか、結局、まだ海のものとも山のものとも判らない独身社員を、取り敢えず参加させておけ!ということなのである。こんなことなら、もっと早く結婚でもしておけば良かったと悔やんだが、一つだけとても魅力的な条件が付いていた。給料以外に海外出張旅費が支給され、物価が非常に安い北京なら出張旅費だけで充分暮らせるらしい!何せ、まだ“カナダ旅行!”のローンもほとんど残っているし、「銀行口座に“残”は無い!」のである。結婚費用だって、欲しいではないか!不純と言えば不純、純粋と言えば純粋とも言える動機で、生涯初めての留学、しかも動乱収まらぬ“北京!”
への留学は決まった。

  本人がこんな調子だから、周りの人たちもさっぱり気遣ってくれる様子も無く、また自分でも特に何を準備するでもなく、1982年1月18日の出発日が近づいてきた。芦屋浜にあった独身寮の自室で、出発日の未明になってからおもむろに、スーパーからもらってきたダンボールに下着類などを詰め込み、荒縄で縛った。結局一睡もせず、同期入社の友人が運転する宣伝カーで大阪空港に向かった。“カナダ行き!”の時と違って、海外へ行くという気がしない。成田空港経由で北京に向かう飛行機は決して満席とは言い難く、米国や欧州に向かう便のような華やいだ雰囲気も無い。ダークスーツに身を包んだ友好商社のビジネスマンらしい人々がぱらぱらと座っている。

  成田を出発してから4時間半後、徹夜明けで思わず熟睡していた耳に甲高いアナウンスが流れ込んできた。窓から外を見ると、黒、灰色、茶色など暗い色に染まった北京の街並みが眼に入った。気温は、マイナス10度ぐらいらしい。妙に意気込んで飛行機を降り、空港ターミナルに入ると、自動小銃で武装した警備兵たちが大勢立っていた。本当に半年間ここで頑張れるだろうか。柄にも無く、自分が緊張しているのがよく分かった。

■我が青春の北京!(中)は、こちらから>> 文 国影 譲

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