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イデアなひととき
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花火!その美しく、儚きもの!

 

  何故、日本人があれほど“散り行く桜”を耽美し、そして今回、お話しする“花火!”というものを好むのか。その答えは、やはり凝縮した一瞬に“最高の輝き!”を放ちながら、あっという間に“闇の彼方”に消え去ってしまうような“儚さ!”に対する、“愛おしいという気持ち!”にあるのではないか。

  「人の夢」と書いて、「儚い(はかない)」と読む。人の命には限りがあり、そんな人間が抱く“夢!”は成就して輝く時もあるが、人類悠久の時の中では、「瞬き(まばたき)にも満たない時間」でしかない。その、“悲しさ!”、その
“儚さ!”が、“花火!”の持つ“究極の美!”に重なっているのだろう。

  紀元前3世紀の中国をその起源とする“花火!”であるが、日本においては、江戸文化の隆盛が、その発展に大きな影響を及ぼしていることは間違いない。もともとは大和の国(現在の奈良県)に、幼少の頃から“花火作り!”の天才と呼ばれていた「弥兵衛」という男がおり、長じて江戸に入り、日本橋横山町に「花火師、鍵屋弥兵衛」として店を構えたのは、万治二年(1659年)のことであったとある。しかも、その年には「花火師、鍵屋弥兵衛御本丸御用達となる」という記録もあるから、彼は江戸に出て来て直ぐに、将軍が上覧する花火を幕府に上納していたということになる。これこそ“花火!”が打ち上がる場所では、必ず声の掛かる「鍵屋~!」の誕生の瞬間であった。明暦の大火で灰燼に帰した江戸の、その後の復興・繁栄振りは目覚しく、夏場など、大名、旗本、御家人は言うに及ばず、町人までもが一晩大枚5両(現在の40万円)を惜しげもなく使い、大川(隅田川)の川遊びに興じたそうだ。「鍵屋」も6代目の頃には両国の川開き花火を担当し、ますますその名声を上げていった。 文化5年(1808年)には、「鍵屋」の大番頭であった清七が、7代目「鍵屋弥兵衛」から暖簾分けを受け、「玉屋市兵衛」を名乗り、ここに名実共に「鍵屋」、「玉屋」という、現代にもその名を残す二大花火師が誕生したのである。

  最盛期の「両国川開き」では両国橋を境として、川上を「玉屋」が、川下を「鍵屋」が仕切ったそうだが、「玉屋市兵衛」の腕前が「鍵屋」に勝ったため、“橋の上”は「玉屋ぁ~!」、「玉屋ぁ~!」の掛け声で溢れかえったと史実にある。ところが、天保14年(1843年)4月17日、「玉屋」の花火工場から出火し、続く町並みも類焼させてしまった。当時の江戸では、何が怖いと言って、火事ほど恐れられていたものはない。失火は、「天下の大罪」であり、「玉屋」は“江戸ところ払い!”となり、家名断絶、廃業した。しかし、江戸庶民は、「玉屋」の腕を惜しむと共に、まるで自ら作り上げた“花火!”のように35年という短い時間を輝き、そして闇に消えていった「玉屋」への“愛惜の念!”
から、その後も「玉屋ぁ~!」の掛け声を掛け続けたのだという。

文 国影 譲

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