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イデアなひととき
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「愛」は翼の如く!

 

  日本人はある年齢になると正面きって「愛」を論ずるのが気恥ずかしくなるらしい。ともすると「愛」などと口に出した瞬間に、“胡散臭い!”とか“エセ宗教のようだ!”などと言われてしまう。ただ私もコラムニストを生業(なりわい)としている以上、どうやらここを避けては通れないと思い極めた。男と女、親と子、友達同士、同朋、人類など、その間に存在する“「愛」の本質”とは、いったいどんなものなのだろうか。

  日本という国から「ありがとう!」という言葉が消えてしまってから既に久しい。それと機を一にして「同朋愛」も意識出来ないほどに希薄になってしまった。それでなくても、「オリンピック」や「サッカー・ワールドカップ」の時以外は自分が日本人だと感じる機会すら無いような国になってしまったような気がする。古来より日本には「愛語の精神」というものがあり、言葉を愛する気持ち、美しい言葉を選ぶ気持ちが端緒となって、相手に対する愛情や尊敬の念が生まれると教えられた。相手への“感謝の念”を「ありがとう!」という美しい言葉に込めることによって、「愛」は具体的な質感を持って人から人へと伝わっていく。“感謝!”は「愛」の本質の一つである。

  人間はもともと一人で生きられる存在ではない。人間とは誰かを愛し、又、誰かに愛されることで“自らが生きる意味”を意識することが出来る“崇高な存在”である。自分の命が危険にさらされるような時でも、愛する者を“迫り来る魔の手”から絶対に守り抜きたいと思う。また、精神的に非常に厳しい環境に置かれた時でも“精神の均衡”を保ち、絶望的な状況から無事脱出するための“翼”となるものこそ「愛」の存在なのだ。つまり、如何なる時にあっても心を暖かくし、人間としての尊厳を守ってくれる“魔法!”もまた、「愛」の本質であろう。

  そして今、我々人類は「地球」という“あらゆる生命の揺りかご”に対する「愛」を強く意識しなければならない時が来たようである。最近10年間で地球の年間平均気温は1度以上上がっている。その原因は二酸化炭素の排出量の増大にあり、突き詰めると“快適性”や“経済的拡大”などという人類のごく一部の人々だけが受けられる“恩恵”が、地球上の多くの生命を脅かしているのだ。今、私たちは、直接会ったことも無い人々や、話した事も無い子供達、そして地球上に生きている全ての生命を心から愛し、それを“快適性や経済的拡大の犠牲にしない!”という具体的な“愛の形”にする時が来たのである。

文 国影 譲

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