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イデアなひととき
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秋の香りに包まれて!

 

 灼熱の“夏”は、あまりに開放的過ぎて“詩”にならない。そうかと言って寒さ厳しき“冬”は、自分の“命”を守る事に躍起になってしまう。詰まる所、我が人生の「来し方、行く末!」を考えるのには、“秋”こそ最も相応しい季節である。魂までが身震いするような“透明感のある空気”に満ち溢れ、夏の間いつもあった“陽炎(かげろう)のような揺らめき”も、もうその姿はない。朝晩のひんやりとした冷気は、暑さで濁った脳裏に、再び“凛とした生き方”への“憧れ”を思い出させてくれる。

 私にとって秋にまつわる“香り”と言えば、それは「たき火の香り」だろう。“謹厳実直”をそのまま絵に描いたような父は、決して多趣味な人間ではなかった。勤め先の若い人たちからは、まるで“武士”のようだと言われていながら、まず、家にいる限りは、家族と共に過ごす時間を何よりも大切にする人だった。そんな父が、“落ち葉の舞い散る季節”の週末ともなれば、我が家の庭の片隅に大きな穴を掘り、昼過ぎから夕方にかけて「たき火」に興じる。“物事の本質”を言葉少なに語るのが常だった父は、そばに立つ私に、特に自分から話し掛けるでもなく、しかし決して拒絶するわけでもなく、ただもくもくと「たき火」に“落ち葉”をくべる。思いあぐねて私から、「どうもうまく生きていけないんだ!」と言い出すと、父は少しだけ微笑み、「でも、生きているだけで意味は有る。」とつぶやいた。

 朝晩の“露”を含んだ“落ち葉”は火に炙られ、うっすらとした煙を吐きながら徐々に“秋の香り”を振り撒き、そしてちりちりと燃え尽きていく。時には、解体した“洋服ダンス”や雑誌類も、燃え盛る「たき火」に投げ込まれ、赤や緑の炎をあげている。風向きによっては我慢出来ないほど煙が目に染みて、私はあわてて風上に移動するが、父は目を細めたまま動こうとしない。“火勢や炎の動き”はまさに千変万化で、まるで吸い込まれるような気持ちで見つめる中、やがて投げ込まれたもの全てが“真っ白な灰”になった。あれほどの量が有ったものたちが本当に一握りの土塊に混ざり、隠れてしまった。

 秋、毎週末繰り返された、この「たき火の時間」は、父にとってどのような価値の有るものだったのだろうか。いずれにしても、私はほとんど無言で父と過ごすこのひと時が、たまらなく好きだった。

文 国影 譲

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