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一期一会のある暮らし
私流!絢爛たる歌舞伎
(上)

  歌舞伎を観るのに、“流儀”はいらない!拾人いれば拾通りの、百人いれば百通りの“楽しみ方”がある。そしてこれが、歌舞伎が四百年以上に渡って“超一流”の“大衆芸能”で有り続ける“理由”であり、“懐の深さ”でもあると思う。ただ、それでも敢えて申し上げたいのは・・・、やはり歌舞伎は「役者」を観て頂きたいということだ!!

  鶴屋南北や河竹黙阿弥、近松門左衛門といった、“座付き作者たち”が世に残した“名だたる作品群”を目安に、歌舞伎を観に行かれる方もおられるだろう。また、“江戸の荒事(あらごと)”、“上方の和事(わごと)”、市川宗家(成田屋)の「家の芸」である“歌舞伎十八番”など、“観て楽しめる演目”に惹かれる方もおられるだろう。しかしながら、俗に“千両役者”と呼ばれる“超一流の演者たち”を抜きにしては、やはり“歌舞伎”は語れない。現代で例えて言うならば、人間国宝である「中村雀右衛門(京屋)」が、「一世一代にて相勤め申し候。(自らの“役者生命”を賭けてこの大役を勤める覚悟です!)」という“大看板”を舞台に掲げて、「本朝廿四孝」の“八重垣姫”を演じる瞬間こそが、舞台で真剣勝負に挑む“歌舞伎役者”の真骨頂なのだ。素晴らしい観客によって“歌舞伎役者”は育てられ、観客は“千両役者”から、見事な“非日常”を受取ることとなる。

  江戸時代から営々と続く、観客を魅了する“良い役者”を表す言葉に「一声、二顔、三姿」というのがある。「声」は、発音や音程まで含めて「口跡(こうせき)」とも言われるが、電気の無い時代、もちろん性能の良い“マイク”などあろうはずも無い中で、満場の聴衆を前にして何を喋っているのかがはっきり聞こえなければ、とんだ興醒めだったろう。だからこそ、大向こう(歌舞伎小屋の最も奥に位置する席)の観客を、“台詞回し一つ”で唸らせることが出来る役者こそが、一流ということになる訳だ。

  更に現代のように、強調したい対象に“スポットライト”を当てるのと同じ効果をもたらす演出が“見得”という動作である。現代用語でも「大見得を切る。」などという表現で残っているが、大きく眼を剥き、黒目を中央に寄せ、更に体全体に“気”を集めて、正面を睨みつける。この時、役者の「顔」は大きければ大きいほど、観客に対してその存在が強調されることになる。つまり、「顔自体が大きい事」が、“良い役者”の必須条件だったのだ。最後に「姿」であるが、これには、いくつかの裏話があるので、続きにて“ゆるり”と語ることにしよう。