トップページ  >  一期一会のある暮らし
一期一会のある暮らし
蘇る和の心
(日本の原風景を求めて)(上)

  兼好法師の「徒然草」には、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。(花なら満開の時、月ならむら雲一つ無いような満月の時だけを、愛でる ものではない。萎れたら萎れたなりに、散ったら散ったなりに花は美しく、雲に隠れれば隠れたなりに月の美しさはあるものだ。)」とある。美しいものの代名 詞とも言われる“雪・月・花”であっても、形有るものは、いつかはその形を失い、深い闇の中に消え去っていくという運命を背負っている。その“悲しさ”、 その“侘しさ”、その“寂しさ”こそが“諦観”(文字づらの“あきらめ”ではなく、物事の本質を“そのまま受け取ること”)に繋がったのだろう。

  最高の状態にあるものだけを耽美するのではなく、滅び行くもの、消え去ろうとするものに対する“諦観”と“愛おしさ”を 重視するのは、日本人の感性の中でも特筆すべき部分である。もともと世界にも稀な“四季の移ろい”という自然環境が、日本人独特の鋭い感受性を醸成したの だと思う。

  欧米諸国の人々が論理的思考を巡らす時、日本人は情緒的思考の中に活路を見出す。「起きて半畳、寝て一畳」と言われるような厳しい生活環境で修行する禅宗の寺院に、“枯山水”の庭園が多いのはなぜだろうか。
造園するときの表現上、“贅肉(ぜいにく)”を削ぎ落としていくと、そこに残るものは、輝くような光と、吸い込まれるような奥行きのある影であることは充分理解できるところであり、禅の心に通じる部分があるのだろう。

  花の“紅”、コケの“緑”、流れる水の“透明感”と心地よい“水音”、小鳥の“鳴き声”などに包まれた庭園も素晴らしい が、これらを“白砂と黒い庭石”の中に閉じ込めた“枯山水”という“精神世界”もまた、日本人が古代から求めて止まない“原風景”だ。白砂の上の“水紋” に目を移せば、どこまでも広がり、観ていて倦むことがない。簡潔な表現にこそ、かえって奥行きの深さを感じることが出来るのである。

  夕焼けに染まる西の空に、山へ帰る鳥たちがくっきりとシルエットとして浮かび上がり、どこからともなく夕食の味噌汁の香 りが鼻腔をくすぐる。「母は、6時までには帰れと言っていたなぁ~・・・。」と、ほんの少し、遊びすぎて帰宅が遅れたことへの後悔の念が頭をもたげるが、 すぐに目の前を飛び過ぎていく“赤とんぼ”につられて、暮れなずむ街をどこまでも小走りに通り過ぎる。鼻の奥がつんとして、涙が出そうになった・・・・。