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一期一会のある暮らし
自分探しの旅の彼方に
(上)

ichigo07-01  あなたは、いったいいつ頃、“自分が自分であること”に気付いただろうか。他の誰でもなく、ましてや“物”や“動物”ではない。幼いなりに確かに自我を持ち、自分の意志で人と接し、情報を受取り、考えて、行動する。そして、自分が投げた小石が描く波紋に目をやりながら、また次の行動に出る。こんなことの繰り返しが始まったのはいつだったのだろう。

  2歳半の頃、庭の滑り台を“仲良しの友達”と一緒に滑り降りた“瞬間”から、“自分という存在”を意識し始めた。“記憶”というのとは少し違うかもしれない。何故ならば、まだまだ連続性をもった意識ではなかったから・・・。しかし、それ以前とそれ以後とでは確実に何かが変わった。人間には、確かに“魂”が吹き込まれる“瞬間”があるのだと思う。それまでの“無意識”の世界から、確実に“意識”の世界の扉は開かれ、自分は“自分”となった。

  近代哲学の父、デカルトは「我思う、故に我有り!」と言った。と大上段に振りかぶると、何だか学校の哲学の時間のようだが、“自分が自分であること”の持つ意味は、ますます大きくなっていくように感じる。宇宙の中で、地球の上で、この日本で、この社会で、この家庭で、“自分”はいったい何者なのか。そして、“自分”はどこから来て、どこに消えていこうとしている存在なのかと。ドイツ人たちが言う、「自分の人生」という物語を演じる“主人公”として、“自分”が“生きていた証”を残したい。“自分”の存在意義や存在価値は、具体的に体感することはむずかしいが、少なくとも“誰かの記憶”に生き続けられる“自分”でありたいと思ってしまう。

ichigo07-02  漠然とした不安と、山積みになった仕事の狭間で、“自分”を見失いかけた時、ふと“自分”が6年間を過ごした“小学校”に足が向いた。木造の校舎や地下道をくぐらないと行けない所にあった体育館は既に無く、近代的な建物に立て替えられていたが、校庭では可愛い子供たちが、無邪気な声をあげて走り回っている。集まり散じて人は変わり、周りの街並みも明らかに変わった。しかし、“ここ”に“自分の原点”は確かにある。深呼吸をした時に感じる、鼻腔の奥底に残る香りや、この場所だけが持っている“気”は、何と心地良いものなのだろうか。あれだけ悩み、怯え、悲しみ、叫んだ幼い日々の記憶は、すべてが、“自分”という存在を確認出来たという“爽快さ”に置き換わった。