トップページ  >  一期一会のある暮らし
一期一会のある暮らし
「市川團十郎」の悲劇と栄光(上)
(上)

 初代「市川團十郎」の父の本名を「堀越重蔵」と言う。“苗字・帯刀”が武士の特権であった江戸時代に“苗字”を名乗っていたという事実は、即ちその出自が武士であったことを示している。元々「堀越家」は、甲州武田氏の家臣だったとも、また小田原北条氏の家臣だったとも伝わるが、いずれにせよ主家が滅んだ後に下総(しもうさ)の国、幡谷村の郷士になったという。この「堀越重蔵」の息子が「堀越海老蔵」であり、後の「市川團十郎」である。そんな「堀越海老蔵」がいったいなぜ河原乞食とも蔑まれる“役者”となったのか。360年間にも亘る「成田屋」の歴史、「市川團十郎」の系譜は、正にここから始まったのだった。

 「團十郎」の系譜と書いたが、実は二代目と四代目、五代目と七代目、七代目と九代目の間には“血縁”は元より、親類縁者という遠い繋がりすら無い隔絶があった。という事は、「市川團十郎」という“大名跡(だいみょうせき)”は単なる血縁による“世襲”で繋がったのではなく“歌舞伎の氏神”、“一般大衆からの要請”という非常に現実的なニーズによって繋がったことが興味深い。世の中は“上手い役者”の“華麗な演目”を常に欲しており、この条件を満たす“役者”こそ「市川團十郎」に相応しいと思われていたのだろう。歴代の「市川團十郎」には早世した人もあったが、“名優”が揃っていたのには理由が有った訳である。

 さて「堀越海老蔵」、後の初代「市川團十郎」がなぜ“役者”の世界に入って行ったのかだが、どうやら郷士となった父の影響があったようだ。“郷士”には武士の意識・価値観を残しながら農民になった者が多く、「堀越重蔵」も一時、下総国の埴生郡幡谷村で農民となったのだが、後に家を弟に譲って江戸に出て、和泉町に住み「幡谷重蔵(はたやじゅうぞう)」と名乗ったらしい。彼は、侠客(義侠心を持って、人の窮境を救う武力集団)である「遅蒔(おそまき)重兵衛」の娘「とき」を妻とし、萬治三年(1660年)に男子を授かった。この子が「海老蔵」即ち初代「市川團十郎」なのだが、この「海老蔵」という名の名付け親も「唐犬(とうけん)十右衛門」という侠客だったと伝わる。こうして自らも侠客「堀越重蔵」となって、“芝居の興行の仕切り”や“興行主の用心棒”を生業とするうちに、息子である「海老蔵」が芝居の世界に足を踏み入れたのは、当然の成り行きだったのかもしれない。但し、芝居の世界がそう甘くないことは、「堀越海老蔵」の名前が14歳になるまで、歌舞伎役者の芸評である“役者評判記”や“役者番付”にも全く登場しないことでも明らかだ。地方へのどさ廻りに同行していたのか、或は全く取るに足らない端役しか与えられなかったのかは定かでない。とにかく彼は、14歳になった延宝元年(1673年)に“中村座”で上演された“四天王稚立(してんのうおさなだち)”の「坂田公時(さかたきんとき)」という役で、初舞台を踏んだという話が残っている。そして21歳となった延宝8年(1680年)に上演された“遊女論”の「不破伴座衛門(ふわばんざえもん)」役を演じ、生涯の“当たり役”としたという。更に25歳の時には“市村座”に「市川團十郎」の名で出演し、徐々に“名優”の評判を得て行く。(つづく)