トップページ  >  一期一会のある暮らし
一期一会のある暮らし
食はいつも人生の中心にある!
(上)

実は今回、「生きること」は「食べること」という題でコラムを書き出そうと思っていたのだが、私が尊敬する思想家「吉本隆明」氏のお嬢さん「吉本ばなな」さんが書かれたコラムに、全く同名のものが有ることが分かってとても驚いた。
第二次世界大戦の影響が完全に払拭出来ていない時代に生まれた私より10歳も若い「吉本ばなな」さんが、「生きること」と「食べること」を同価値と捉えておられることを、非常に新鮮に感じたのである。何しろ私の中には未だに、深刻な“飢え”を経験せざるを得なかった多くの人々の怨念が僅かでも残っているし、一方、彼女の中には、高度成長経済の恩恵で驚くほど進化改善していく食生活があったはずなのだから。しかしどうやら「食」に関わる“価値感”というものは時代の変遷を超え、個人のパーソナリティに由来するものなのだと納得した。

以前から友人達には「国影の“思い出話”には、必ず食べ物が絡んで来るな。」 と言われていた。本人は意識していなかったのだが、そう言われてみると確かに頭に浮かぶシーンの中には、必ずスポットライトに照らされたように“食べ物”が有った。特に“飢えて”いた訳ではない。ただ、「食」に対する強烈な執着心については、自覚がある。そしてこれには、遺伝の部分もあるように思うのだ。
亡くなった母に、人生で一番嬉しかったことは何かと聞いた時のことだ。戦後の闇市で、何か家族の為に買えないかと、心細い財布の中身を確かめながら思案していると突然、目の前で警察の摘発が入ったのだそうだ。そして警官たちは、次々と並べられた商品を“公定価格”で行き交う人々に売って行った。興奮する人々に混じって、母は太った“鯖1本”と“乳ボーロ”を、まるでタダ同然の“公定価格”で手に入れたらしい。自宅に持ち帰った時の、家族と幼子の蕩ける様な笑顔を一生忘れることが出来ないと言った。どんな“宝石”よりも、又、豪華な“衣装”や“邸宅”よりも、本当に人の心を蕩かすものは「食」を置いて他に無い。この嬉しさを生涯持ち続けた母の気持ちが、自分の事のように感じられた。
以来、間違いなく自分の人生の中心にも、「食」が有ることを実感するようになったのだが、かと言って、美食に生涯を捧げた「北王子房次郎(魯山人)」や、わざわざ京都の料亭の弁当を味わうために特急列車の席を買い切り、弁当だけを東京まで座らせたという「谷崎潤一郎」とはまるで次元の違う話だ。どちらかと言うと私の場合は、“美食家”が目指す方向とは正反対の、もっと普通でしかももっと切実な「食」を追いかけているような気がする。もちろん、ミシュランの三ツ星レストランも美味いに違いないし、今の日本であれば何万何十万と出せば、世界中の山海の珍味を食べることも容易だろう。でも、本当の“食いしん坊”を自称する私が、食器にも、食材にも、出来上がった料理にも、求めて止まないのは“ほっこりする温かみ”なのだ!それぞれの“作り手”が丹精込めたその軌跡を、心行くまで堪能したい。ただ、それだけと言っても過言でない。街角にひっそりと佇む“洋食屋”で出会った“オムライス”は、幼い頃両親と共に頬張った東京駅丸の内北口「レストランみかど」の“それ”を思い出させた。(続く。)