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一期一会のある暮らし
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 2020年5月に、「市川海老蔵」は第十三代目「市川團十郎白猿(はくえん)」を襲名することとなった。先代が66歳で亡くなってから7年。まだ若い、まだ若いと、周囲はその実力を評価しながらも厳しい目で見つめてきたのは、やはり「市川團十郎」という大名跡(だいみょうせき、家制度と結びつき代々継承される芸名の中でも特に伝統があるもの)が、歌舞伎界ではあまりにも大きく、別格の存在だからだろう。歌舞伎界で“宗家”とは唯一つ、大名跡「市川團十郎」を頂点とする演劇集団“成田屋一門”を指す。なぜ“成田屋一門”だけが“宗家”を名乗れるかと言うと、“江戸歌舞伎(野郎歌舞伎)”、特に“荒事(あらごと)”という勇壮な形態の歌舞伎を創始したのが「市川團十郎」だったからなのだ。 「出雲阿国」が京都四条河原で、“かぶき踊り”という初期の歌舞伎を始めたのが400年前と言われるが、風紀の乱れなどにより、結局350年前には“成人男子”が女性役も演じる“野郎歌舞伎”が主流となった。特に初代「市川團十郎」が演じた“荒事”は神事とも例えられ、彼は成田山新勝寺“不動明王”の生まれ替わりと信じられたという。初春の歌舞伎で「團十郎」に睨んでもらうと1年間風邪を引かないとも噂されたらしい。そこで今でも、“成田屋の統領”は、「先祖の遺髪(いはつ)を力草(ちからぐさ)に、ひとつ睨んでご覧に入れます!」という口上と共に“にらみ”という“家の芸”を観客に披露することがある。この “にらみ”は、両眼に力を込めて“目を剥き”、片方の目を中央に寄せるという 極めて高度な技で、一度行うと目の“毛細血管”が相当数切れるという凄さだ。

さて十三代350年に亘る「市川團十郎」の歴史は、常に人気者であるが故の重圧との闘いであった。初代「團十郎」は、何とか自らの芸の継承者が欲しいと男子の誕生を願ったがなかなか叶わず、縁を頼って成田山新勝寺に参詣したところ、ようやく息子を授かった。そこでその御礼の意味も込めて「成田屋」という屋号を名乗ったと言われる。こうして二代目を授かった初代「市川團十郎」ではあったが、何と舞台上で「生島半六」に刺殺されるという悲劇が起きてしまった。 原因は女性問題とも金銭問題とも噂されるが、今でもはっきりしていない。ただ、 16歳で二代目「團十郎」を襲名した初代の息子は、突然父という後ろ盾を失い、大変に苦労したと伝わる。そんな時、「生島半六」の師匠である「 生島新五郎」(絵島・生島事件で三宅島に流罪となったことで有名)が、刺殺事件の責任を感じてか、自ら二代目「團十郎」の後ろ盾となった話は有名だ。やがて二代目「團十郎」は、江戸随一の花形役者となり、実際に今でも話に残る“千両役者(年間報酬、一億円以上)”になったのだ。そして“歌舞伎十八番”の礎を築いたり、歌舞伎独特のメーキャップである“隈取り”を創始したが、最も有名なのは“俳句”の才能があった事だろう。二代目の“俳号”を「栢莚(はくえん)」と言う。 そう!この度の襲名「市川團十郎白猿」の「白猿」はこの「栢莚」を模し、更に 猿は人間に“毛が三本足りない!”という言い伝えから、自らの“芸”が先祖や 先代にはまだまだ及ばないという思いを、この「白猿」という名に込めたのだ