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一期一会のある暮らし
上質な時が流れる京都へ
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ichigo44_01  京都人が“先の大戦”と言う時、それは「太平洋戦争」を意味しない。直近で“京都”が戦火に見舞われたのは1864年の「禁門の変(蛤御門の変)」で、長州藩邸付近と堺町御門付近での市街戦が元で、一条通りから七条通りまでの広範囲が焼失してしまった「どんどん焼け(元治の大火)」であるが、“先の大戦”と言えば、正に1467年から11年間続いた「応仁の乱」のことを指す。

  室町幕府第八代将軍「足利義政」の頃、将軍後継問題に端を発して、「細川勝元」、「山名持豊(出家して宗全と称す)」ら有力守護大名たちが覇権を争ったため、京都中が灰燼に帰してしまった“天下の大乱”こそが「応仁の乱」である。

  794年に、「桓武天皇」によって“長岡京”から“平安京”に都が移されて以来、長く政治経済の中心地として栄えた“京都”ではあるが、1192年の鎌倉幕府成立によって行政の中心は“関東”に移り、室町幕府の成立によって一旦は“京都”に行政府が戻ったものの、「応仁の乱」による市街地の焼失が原因で、室町時代後期には、“京都”は極端な衰退期を迎えた。この頃、市街地は上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)に分かれ、当初の“平安京”より、かなり小規模になってしまっていた。位の低い貴族たちも住みかねて、近隣の地方都市に落ち延びたと言われている。そんな“京都”が、再び大規模な復興を遂げるのは、「応仁の乱」以後百年以上が経ち、安土桃山時代になって「織田信長」が上洛を開始した永禄二年(1599年)以降のことである。つまり、私たち現代の日本人が“心象風景”として慕う“京都”の街並みが整い出したのは、実は約400年前頃から後ということになる。

ichigo44_02  “京都”の老舗と言われる店々が、自らの歴史を約400年前に始まったと称した時、それは自分たちこそ「応仁の乱」で灰燼に帰した“京都”で商売を始めて、その復興に大いに寄与したと、胸を張って言っているのと同義である。新生“京都”の主役こそ、彼ら“町衆”であったし、行政府の中心が再び1603年の江戸幕府成立によって“関東”に移ってしまった後も、天皇と貴族たちによる“宮廷文化”を、一般庶民の生活にまで消化伝播することによって、“京都”に真の繁栄をもたらしたのも彼ら“町衆”であった。

  江戸時代においても、幕府は“京都”の独特な「価値観」と「存在意義」を無視できず、“京都所司代”を置いて朝廷との交渉を継続したり、“有職故実”という貴族の「行動規範」、「古代からの知識教養」を武家社会にまで持ち込むため、“京都”という都市を最大限に活用しようとする。幕府機関だけでなく、諸藩も藩邸を置いたため、“京都”は情報の「集積地」、「受発信基地」として、独自の道を歩むこととなった。ここに、以前も書いたとおり「京都時間」という概念が生まれ、単に“利潤追求”や“効率優先”だけでない、手間隙掛けた“文化の深み”が生まれる礎が出来たのである。